その言葉の真意とは
「計算通りだった」という言葉は、スポーツの会話の中で結構聞く話です。
グリーン手前のエッジからアプローチショットをした人が、カップの近くに止まったボールを見て「計算どおりだった」と言うと、本当に上手く見えるし、その言葉を聞いた人は、心の中で「くそっ」と思ってもなかなか反論できません。
ここで言う「計算」とは、いったいどういうものなのか、まさか写真にある電卓で計算してわけでもありません。
1ヶ月ほど前にラウンドしていたときのことですが、15〜20メートルぐらいのバンカーショットを打ったら、たまたま上手くいってカップの近くにボールが止まりました。
そのホールが終わった後、いっしょにプレーしていた人が「あのぐらいの距離のバンカーショットは、ボールの手前何センチぐらいにヘッドを入れるのか?」と私に聞いてきたのですが、 私はボールの手前何センチぐらいにヘッドが入ったのか全然記憶にないのです。
それに、ボールを見てショットしたのか、砂を見てショットしたのかさえ覚えていないのです。
7番や9番アイアンでランニングアプローチをすることが時々ありますが、調子のいい時はボールの落としどころを考えていないようです。
ショットし終わった後、最初のバウンドがどこか分からない時は、大体調子のよい時です。
初めて行ったコースなどで、グリーンの奥にボールが行って、下りの難しいアプローチが残った時など、ボールの落としどころを考えた時は、たいていの場合ボールはカップに寄ってないようです。
落としどころを考えると、何故私の場合はいい結果がでないのか?
おそらく、複数のイメージを持たなくてはならなくなるからでしょう。
落としどころのイメージと、ボールからカップまでのイメージの2つを頭に浮かべながらショットしなければならず、シンプルにボールを打てなくなります。
シンプルに打てないということは、ボールまたはショットに対する集中が減ることと考えていますから、思ったとおりの力がボールに伝わらず、結果は芳しくありません。
「どこにボールを落として、その後ランでピンに寄せる」というより、「ポンといって、ツッツッーとピンによって行く」というような感じのほうが、よい結果が出るように思います。
感覚を大事にして、全体を漠然と捉えたほうが、計算しづらいところまで、逆に「計算」出来るのではないでしょうか。